ごあいさつ

社長写真

弊社は昭和39年に環境と自然に恵まれた福島県福島市で建設業を創業いたしました。経済環境の変化に対応しつつ将来を展望して体質の改善強化を図り社業の積極的な進展に努めました結果企業基盤も確固なものとなり、業績につきましても幾多の施工実績を積み重ねながら着実に業域を拡大して成長を遂げて参りました。

近年情報化社会を迎え社会のニーズも益々多様化しております。建設業におきましても従来のように施工知識、技術はもちろんのこと複雑多岐にわたる関連情報を吸収、消化できるトータル企業としての役割を強く要求されております。

この社会環境を十分認識して社内体制の改革と、心も新たに建設業を通じて社会に貢献する企業理念をさらに推し進めたいと考えております。

安斎建設が長きにわたり蓄積して参りました豊富なノウハウに加え新しい社会のニーズに即応する方法を自ら創造して未来に向かって前進を続るための努力を重ねているところです。

皆様のご要望に必ずやお答えできるものと確信いたしております。今後とも皆様のご支援とご指導を賜ります様切にお願い申し上げます。

創業当時の様子

創業当時の様子

手記「『本物』に徹してお応えしたい」

社長写真

幼少のころより家業の後継ぎとして周りから育てられ、自分自身も小学生の頃より当然のように家業である建築屋の道に進む思いがあった気がする。
昭和36年生まれの自分も色々な方々にお世話になり社会人となる年齢となり建築屋の修業をするべく企業の面接や就職試験を受け始めたのは昭和58年の夏。おりしも当時の景気や求人状況は非常に悪く、くわえて建築屋が家業であるため3年から5年で地元へ帰ることを前提に面接を受けていたので内定を下さる企業は殆どありませんでした。父(当時社長)の知人先なども当たってもらいましたが、建設不況で就職先が決まらぬまま昭和59年3月大学を卒業し4月より家業である安斎建設に入社いたしました。
つらい出来事がありました。当時の安斎建設には社員の方が38名在籍していました。昭和59年の12月に社長から「来年の受注の見通しは全く無い。今年は今までの蓄えでどうにかやってこれたが今の人数では来年の年末は無い」と話があり社員数を減らし会社の存続を図る方向性が示された。その場にいたのは社長、当時の常務と部長、そして私の4名でした。38名いる社員数を13名減の25名にして態勢を建て直そうと決まったのです。内容は年長者の方々のリストラが主で、私は社長からその実行役を仰せつかりました。13名の方々のご家庭を1件1件訪問し、事情を説明して廻りました。あるご家庭で奥様に涙を流されたことは一生忘れることが出来ません。
今の安斎建設が存続出来ているのは当時涙を呑んで退職して下さった方々のおかげであることを常々思います。ありがとうございます。今でも父(現会長)はその当時の話をすると「やはりあのときの退職者の方々のおかげで現在がある」と涙を流します。当時社長として断腸の思いで決断したことを思い出す様子です。それらの辛い出来事を経た後、世の中の景気は急上昇。いわゆるバブル景気へ。
忘れられない嬉しい出来事も有ります。
世の中の経済が改善され建築屋も大忙し。私自身も現場経験を積み平成2年、現場代理人としては2棟目の鉄筋コンクリート造4階建「公営住宅北沢又団地」で『福島市優良建築公営住宅部門』翌平成3年には「道の駅つちゆ」で『福島市優良建築一般建築部門』平成6年には鉄筋コンクリート造8階建・公営住宅天王原団地で『福島市優良建築公営住宅部門』でそれぞれグランプリを受賞致しました。現場代理人として3回の受賞は一生忘れることが出来ない嬉しい思い出となりました。
私を現場代理人に育ててくれたのも、3度の受賞が出来たのも協力業者の皆様のお陰と考えています。景気が良くなり建築屋も忙しい時期だったからこそ皆さんに甘やかされず厳しくご指導いただけたお陰であると感じています。世の中が忙しいときでなかったら協力業者の皆様も後継者である自分に気を遣い、甘やかし、私が何を言っても指示してもイエスマンになっていたかもしれません。世の中の状況も私を育ててくれた要因のひとつであるとも考えています。
月日が過ぎゆくのは早く平成11年8月。朝10時に社長から私(当時は専務取締)と常務と赤間部長の3人に緊急の召集が掛けられました。急いで会社へ戻り全員が揃うと社長が話し始めました。「8月末で社長職を専務に譲り自分は会長として応援する」と。あまりにも突然のことでしたので3人は目を丸くして言葉も出ませんでした。沈黙を破るように赤間部長が話し始めました「本当にそれでいいんですか?」社長は「来月からそうしたい」「わかりました。」と赤間部長。赤間さんは父が創業の時から一緒に力を合わせて安斎建設を築きあげてくれた方々のお一人で安斎建設のご意見番でもありました。常に社員や会社を思い発言をしてくれていた。赤間さんが了解すると何でも話は進んでいった。それ位影響力のある方でした。
同年9月に社長に就任。同11月1日、創業35周年と新社長就任祝賀会をサンパレス福島に於いて社員の方々や協力業者の方々に祝って頂きながら新しい出発をしました。
その会場で赤間部長から「検査入院のため明日から休みたい」との申し出がありました。検査の結果は大腸ガンでした。今思えばちょうど亡くなられる3週間ほど前のことです。赤間さんのご自宅を訪ねたのですが家族の方もご本人も誰も居られず、諦めて帰り途中にお散歩中の赤間さんにお会いすることが出来ました。赤間さんに「つねかつ。お茶でも飲んでいけ。会社の話でもしていけや」と声をかけていただけたのです。話の内容はほぼ一方的に赤間さんからの会社の事や仕事の事などのアドバイスに終始しました。映画でいうと「ゴットファザー」の中で主人公が息子のソニーに後継者の座を譲って亡くなる時の場面とオーバーラップします。赤間さんの訃報を聞き自宅へ駆け、そのときの話を奥さんにしていたら涙が溢れて止まりませんでした。ああいった経験は初めてでした。
骨太構造との出会い。
平成12年9月。突然中沢さん(現、誠栄ハウス所長)から「これからそちらへ行ってもいいですか?」と電話があり、「現場の打合せかな?でもわざわざくるなんておかしいな。何だろう?」などと思いながら到着を待ちました。当時わが社は中沢さんが設計監理を手がける2億6千万円の物件の建築部分を請け負っていました。中沢さんが来社してからお話は3時間にも及びました。要約しますと「9月の末に実家の山梨県に里帰りするのですがその時、独自の工法(骨太構造)で成功しているマツキさんという工務店があるので一緒に見に行きませんか?是非安斎社長に見ていただきたい!」という内容でした。私としてはその時の設計監理者からのご依頼でしたので正直「立場上断れない」と思い、思わず「行きましょう!」といってしまいました。往路は中沢さんと奥様、お子様私の4名で中沢さんの運転する乗用車で山梨県の甲府市へ向かいました。中沢さんは以前マツキさんの設計や施工のお手伝いをしていた経験があり中沢さんは常々「あの骨太構造を福島でやってみたい。より良い家造りを知ってほしい」と考えていたそうです。そんな話を車中で熱心に聞かせてくれたのでした。しかしこの時点では数時間後に運命的な出会いをする事になるとは夢にも思いませんでした。まさに運命的。それは(株)マツキ代表・松木正秋社長との出会いでした。今では当社のスタンダードともいえる「骨太構造」の発案者です。やはり忘れられません。朝9時ごろ会社へ着くと松木社長が自ら社屋脇にある展示場と近くに建築中の現場の案内役を買って出てくださいました。しかも自ら運転までしてくれてです。車内でも熱心に色々お話してくださいました。建物を見せていただいた第一印象は「こんな家があったのか!」でした。まさに目からウロコです。そしてもうひとつとても印象深かったのは松木社長がこの事業を始めたきっかけでした。松木社長のお兄さんは大工さんで大手ハウスメーカーのいわゆる下請け施工をしていたそうです。傍目にはいつも忙しくしているのにも関わらず何故か赤字経営。年々借金も増えギブアップ寸前のところで当時別の商売を順調に営んでいた松木社長へ助けを求めたとのことでした。ある日なぜそんなに赤字になるのかをお兄さんに同行して調査したらしいのです。結果、引渡し後に無償で行うクレーム処理の多いことに驚いてしまったとのことです。中でも床がギュギュと鳴る、いわゆる床鳴りのクレーム対応が断トツだったそうです。当時建築では素人同然だった松木社長は思わずお兄さんになぜそうなってしまうのかを聞いたそうです。「原因は大きく二つあってひとつは乾燥していない材料を使っているので引き渡してから材木が乾燥してくると次第に痩せてくるので打ち付けている釘が緩んで音を出す。もうひとつは細い材料同士の組み合わせなので音が出てしまう」との説明を受けたそうです。その話を聞いた松木さんは素人なりにシンプルに「それならば乾燥させた太い材料で床を施工すれば床は鳴らないのではないか?」と考えたそうです。それがきっかけで考案されたのが「骨太構造」今でこそ採用していない事のほうが珍しい位にポピュラーになったネダレス工法の原型ともいえる工法です。しかしその当時地元の工務店や大工さん、ハウスメーカーの中には「マツキは馬鹿だ。床組みにあんなに太い材料やブ厚い板を使って。そんな事やってたら、会社が潰れて夜逃げするのがオチだ」などと酷い事をいう人まで居たそうです。しかしそのシンプルかつ大胆な提案が家造りを真剣に考える皆さんに受け入れられ、認められるのに時間は掛かりませんでした。次から次へと新築の依頼が来るようになり、気がつけばあれほど馬鹿にしていた地元の工務店やら大工さんまでが「仕事が無いので下請けで使って欲しい」と頭を下げてお願いしに来るまでになっていたそうです。
話は少し遡りますが、松木社長が社会人1年生の時、とある消火器メーカーに勤めていて東北6県の卸業者さんに消火器を卸し販売するルート営業をしていたそうです。青森、秋田、岩手…と廻っていつも最後になるのが福島県。そして郡山市にある会社の社長さんが決まって「松木君。今回は何本残った?」と聞いてはその都度残った消火器を全て引き受けてくれたそうです。松木社長は常々「あのときの恩は一生忘れられない。福島県の人には恩がある」と思っていたそうで「安斎君。あなたは私が大好きな福島県の方だから恩返ししたい。私は東北まで進出する気持ちも無いので、もしあなたが本気で骨太構造を施工してくれるなら無償でこの特許を使ってくれて構わない」とまで言ってくれたのでした。私はもちろん勿論何の躊躇も迷いもなく「宜しくお願いします」と頭を下げていました。その当時(株)マツキさんは年間100棟の施工実績があり材料は全てメーカー直接仕入のルートが出来上がっていました。メーカーさんから聞いた後日談ですが松木社長が取引のある全てのメーカーさんに「福島県の安斎建設が当社と技術提携を結んだので当社と同条件、同価格で対応して欲しい」と電話してくれていたらしいのです。その後まもなく民間信用調査会社数社から調査員の方々が当社を訪れては「安斎建設さん。材料の卸販売でも始めるんですか?」と聞いてきます「どうしてですか?」と聞きなおすと「多数の建材メーカーから安斎さんの信用調査依頼がきているのです」との事でした。そして間もなく「(株)マツキさんの推薦もあり調査結果も問題ないとの事ですので(株)マツキさんと同条件、同価格で直接納品させていただきます。」というメーカーさんから多数の訪問を受けたのでした。正直それまでの当社の仕入れ価格と『年間実績100棟価格』とのギャップに社員一同驚いてしまったのは言うまでもありませんでした。松木社長が話す「より良いものを、より安くお客様に提供してゆく」その根拠がこれなのか!これならば『本物』が出来る!と確信しました。こうして『骨太100年住宅』が産声をあげたのです。
安斎建設は様々な方々との出会いそして厳しくも暖かく心のこもったご助言等をいただき仕入れルートならびに「骨太構造」のノウハウを学び、確立して参りました。新築、増改築をご検討中の皆様、安斎建設の「骨太100年住宅」を是非とも選択肢に加えてみてください。安斎建設では現場を重視しています。日ごろは物を言わぬ現場ですが「営業は現場から」の名のもとに今後とも全ての現場をオープンにしていつでも見ていただけるように致します。きっと材料のひとつひとつが語りかけてくれると思います。きっと他社には無い発見がある筈です。
最後になりますが、ここまで安斎建設を育ててくださった皆様に深く感謝いたします。
これからも精進して社員一丸となりお客様の「一生に一度の家造り」「満足のいく家造り」に妥協を許さず『本物』に徹してお応えしていきます。
ありがとうございます。